『夫が脳で倒れたら』外伝『一方、妻は松葉杖』7〜不吉な予感〜

 拙著『夫が脳で倒れたら』(太田出版刊)のスピンオフ(笑)、『一方、妻は松葉杖』。脳梗塞の後遺症の右片麻痺と格闘する夫の横で、なんと妻もうっかり松葉杖生活に。そんなアキレス腱を切ってから10キロマラソン挑戦までの日々のこと。文中の〝トドロッキー〟とは『夫が脳で倒れたら』での表記そのまま、つまり夫のことです。約4年半前のこと、アキレス腱断裂の治療方法は当時のものとなります。1から読まれる方はこちらからどうぞ

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 トドロッキーがリハビリテーション病院に入院していた時、ベッド周りにはかなりの私物があった。

 バランスが崩れた体の姿勢保持のためのクッションが各種とりそろえ状態でボリュームがすごかったけど、雪崩れ寸前は書籍&雑誌各種。個室なら立派なクローゼットもあったろうけど財政的にかなわなかったから、収納が全く足りなくてべッド横に紙袋を置いて入れていた。

 私が自身の入院で持って来たのは、自分で運べる軽いリュックだけ。あとで息子が入院グッズの入ったバッグを持って来てくれるが、トドロッキーの荷物に比べればそこに入っているものは微々たるもの、厳選して必要最小限に絞り込んだ。

 病院ごとベッド周りの様子は違う。クローゼットを隅々までチェックして、トドロッキーのリハビリテーション病院よりずっと収納力が多いなあ、あの当時トドロッキーのベッド周りにこれがあったらよかったなーだとか、あんまり思い出したくないあの当時を思い出す。
 思い出さないために作業に徹することに。
 枕横のナースコールの装置を観察してみたり、ベッド回りのライトを点滅させてみたり、冷蔵庫を奥まで覗いたり、テレビの配線がどうなってるのか研究したり。

 でもひととおりベッド周りの把握作業が済んでしまえば、他にやる作業が思いつかない。いよいよやることがなくなった。やることがなくなると、トドロッキーの入院当時のことが次々思い出された。うーん、何でもいいから違うことを脳裏に描きたいんだが。
 さっき医師に診察室で言われたことがリフレインする。
「暇ですけどね」
 話の流れ的に手術が終わってから退院までのことを言われたんだと思っていたが、入院した瞬間からのことを言っていたようだ。

 と、そこに「やること」がやってきた。やった! 昼食!
 そうか昼はとっくにすぎている、周りは昼食は終わっている様子、お取り置きしていただいていたみたいだ、何この心遣い、こんな気づかいはトドロッキーの入院生活のどの瞬間にもなかった出来事、うわまた思い出した、てか、病院てそうか、作らなくても出てくるんだ!
 材料を買って来なくても、注文しなくても、お店に出向かなくても、なーんにもしなくても目の前に出てくる、しかもベッドに! 皿も調理器具も洗わなくていいし片付けなくていい、最高! とても美味しくいただいた。

 食後は手術前の殺菌の儀。
 手術時の感染防止のため、まず爪切り、そしてシャワー。
 シャワーではとくに患部を念入りに洗うよう指示される。

 シャワー室まで松葉杖で移動する私を見守りしてくれた看護師が、更衣室でギプスをとってくれた。
「ひとりでシャワーできますか?」
「できます!」
 移動だって一人でできるんだけど。

 ひとりで一本足と介護椅子を駆使してシャワー敢行。うーん、これもトドロッキーの追体験っぽいが、座ってしまえば両手が使えるありがたさよ。
 念入りに洗わなくてはならない切れたアキレス腱部分のプヨプヨした皮膚は、さらりとナデナデしただけ。怖くてあまり触れなかった。

 痛くないんだけどなぜか怖い。
 体育館で多くの方が触っていったこの患部、体育館で指導員に促され「ほら、切れてるでしょう」と一度半強制的に確認させられたけれど、その時も怖くてちゃんとは触れなかった。

 自分が思っている以上に自分はビビリなのだと自覚した。体育館でビビることなく患部をグイグイ押したりつまんだりしてアキレス腱が切れていることを確認してくれた人たちを尊敬しそうになったけれど、いやまて、思い直す。
 あのグイグイが痛かったから今私、触れなくなってんじゃね?

 この時は気づかなかったけれど、これが綺麗な皮膚の右足首と対面した最後だった。シャワーから出るとすぐにギプスがはめられ、翌日の手術まで外されることはなく、手術室で外された時は医師や看護師たちの流れ作業の中にあって、私はうつ伏せになっていたから対面どころではなかった。

 手術後には手術痕ががっつり残り、それは今後も消えることは絶対ないと断言できる。あのシャワーの時にこれが最後だと分かっていれば、もう少しぷよぷよ部分を愛でられたのかなとも思う。

 さて、そんなことは置いておく。シャワーで問題が発覚したから。
 生理がいらっしゃった。すっかり忘れていたが、そういえばそろそろいらっしゃる頃だった。まったく用意をしてきていなかった。売店で対応しないとだ。

 いや、てことはだ。
 翌日、手術当日に量的マックスを迎えることになる。どうなのこれ。手術に問題はないような気はするが、着衣後にナースコールで来てくれた看護師に伝えた。

「生理が来ちゃいまして」
「……」

 看護師はギプスを巻く手を止めて、分かりやすい動揺を示した。
「手術に差し支えありますか?」
 あるんだなきっと。
「……」
 看護師は沈黙を続け、頭の中に入っているマニュアルから生理の項を探し出しているようだった。
「えーと、医師と手術担当の看護師に確認します。手術日程を伸ばすことはないと思うんですけど……。ここの病院の患者さん、ご高齢の方が多いので、生理はもうない方がほとんどなんですよね。私、ちょっと初めてで」
 初めてなんだ。へえ。看護師は若い人だけど職歴が浅い感じは全くないんだが。
 看護師は松葉杖の私のベッドまでの移動を見守りした後、各方面に確認するため慌ただしく戻っていった。

 看護師からの報告はこうだった。
「大丈夫です! 明日手術を予定通りやりますね。手術はご自身のショーツで受けてもらいます。
 術後は尿管を入れて長方形の紙オムツとT字帯を使うことになります。紙オムツは様子を見て取り替えていきましょうね。
 術後の紙オムツは生理用ナプキンとは違ってふんわりつけるので、漏れてしまうかもしれません。でも防水シートを敷いちゃうと蒸れちゃうので、敷かない事にしていいですか。もしシーツが汚れても取り替えますから大丈夫です」
 いろいろシミュレーションしてくださっていた。
 対策ありがとうございます! でも一抹の不安、いやな予感。ふんわりつける紙オムツなら絶対だめだとわかるもの。とはいえ看護師も女性、あれこれ鑑みてこの方法なのだろうから従うしかない。

 手術を翌日に控えた入院初日はやることがいっぱい。 儀式は続く。