『夫が脳で倒れたら』外伝『一方、妻は松葉杖』5〜初めての松葉杖〜

 拙著『夫が脳で倒れたら』(太田出版刊)のスピンオフ(笑)、『一方、妻は松葉杖』。脳梗塞の後遺症の右片麻痺と格闘する夫の横で、なんと妻もうっかり松葉杖生活に。そんなアキレス腱を切ってから10キロマラソン挑戦までの日々のこと。文中の〝トドロッキー〟とは『夫が脳で倒れたら』での表記そのまま、つまり夫のことです。1から読まれる方はこちらからどうぞ

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 診察ベッドにうつぶせになると、看護婦は冷えピタとほぼ同じヒヤ感を持つ石膏付き包帯でチャチャッとギプスの甲殻部分を作成した。
 ギプスってこんなに簡単にできるんだ。感心している間にギプスはクッション素材とともに私の右足に装着された。そこだけ見た目がロボ。

「松葉杖を使ったことはありますか」聞かれた。
「ないです」一度も。

 松葉杖は必要がなくなるまで無料でレンタルしてくれるという(病院によってレンタル費がかかるところもある)。へえ、買わなくていいんだ、ありがたい。

 さて、ギプスの手際が素晴らしかった看護師は松葉杖の知識が薄かった。私に松葉杖と『松葉杖の使い方』のプリントを渡し、プリントの内容を読み上げてレクチャーを終わらせた。なるほどこれが夜間診療、随分ラフ。

 以前経験したラフな夜間診療を思い出した。動けなくなるほどお尻の内部が痛くなったときのことだった。

痛みが出たのは土曜日だった。それが何の痛みなのか分からなかったが、出産前後に出た痛みに似ていたのと、その時は時間経過で次第に収まっていったため放っておいた。

 土曜日の痛みは日曜日まで続いた。でも我慢できる痛みだし、病院も休みだしで、そのうち収まるだろうことを信じて引き続き放置。

 すると夜に強烈に痛み出した。歩行が困難になり、つい唸り声が出てしまうほど痛みが強化した。心配したトドロッキーが救急車を呼んだ。

 結論から言えば原因は痔だった。

 搬送先の救急担当医師は内科医だったが、彼は痔であると検討をつけ、「専門外だから痛みを止めをる処置しかできません、明日専門医にかかってください」と、ぶっ太い注射器の針を私の二の腕に打ち込み、「麻酔ですから」と、30分後に眠ってしまうのでそれまでに帰宅するよう指示をした。

 痛みは注射後すぐに和らぎ出した。さすが麻酔。ふらつきながら夜道に出て、すぐにタクシーをキャッチできた幸運に感謝しつつ、家に戻ったところで即眠りについた。ギリギリだった。危なかった。夜道やタクシー内で落ちなくてよかった。

 翌日、痛みで目がさめた私は、すぐさま痔を診てくれる外科に出向いた。そこで昨夜の麻酔の話をすれば、外科医は少し目を丸くしてから、おもむろに笑ったのだった「ははは」。
 私は理解した、夜間診療の処置ってのは専門外の医師が応急処置をするだけであって、つまり絆創膏程度であると。今後は専門医に診てもらえる時間まで、なんとか、ギリッギリまで我慢しようと誓ったものだった。

 あれと比べれば、今回の夜間診療ではギプスも作っていただけたし、松葉杖も使えるようにしていただいたわけで、絆創膏どころではない。かなりちゃんと診ていただけた。松葉杖指導に関してはラフだったが感謝ですもちろん!

 話を戻す。
 タクシーで帰宅したが、松葉杖の扱いに慣れず、タクシーに乗る時も降りる時も、家の玄関を開ける時もかなりモタついた。

 トドロッキーには、体育館で救急車を待っている間、電話で状況を説明していた。彼は電話ごしにあからさまに動揺していたが、ただいまと帰れば動揺はまだ続いていたようで所在無げな表情。脳梗塞発病後、後遺症の一環で状況対応力が低下したから、それによる不安の表出だと思われた(ちなみに状況対応力はこの後かなり回復した)。

 対照的に、高一と中一のふたりの息子が向けてきたのはニヤニヤ顔だった。片方だけロボ足を手にいれた私を明らかに面白がっている。
 まあそうだろう、運動してくるね〜と出て言った母親が、松葉杖とギプスの姿にキャラ変して戻ってきたのだ。自分でも面白い。
 それに息子らはトドロッキーの脳梗塞発病によって、ある日突然父親が入院、数日後に半身が全く動かなくなった父親と面会、というショッキングな経験をしている。これくらいのことでは奴らは動じない。

 この日帰宅して分かったことが2つある。これは大問題で、対策検討が必要な案件となった。

 一つ目、松葉杖を使うと手のひらへのダメージがハンパない。

 ロボ足は常に浮かせているため使える足は一本であり、松葉杖二本がロボ足一本の代行をする。
 歩行時はだから、本来ロボ足が担当するべきターンで全体重が松葉杖に乗る。

 さてこの時、松葉杖に連結している体の部位は手である。ぎゅっと握って操作する。
 松葉杖二本は腕の延長にすぎないわけで、ロボ足の代わりをしているのは腕なのだ。腕二本で足一本。
 松葉杖歩行っていうのはだから、足一本+腕二本で歩く行為なんである。

 ポイントは松葉杖と体の接点が手のひらであること。体重が松葉杖に乗るということは、手のひらに乗るということであって、感覚的には一歩ごとに腕立て伏せを一回やっている。

 だから腕の筋肉がパンパンになる。でもそれよりも問題なのが手のひらのヒリヒリする痛み。手のひらは足の裏のような鍛錬された皮膚とは違う。対策しないと手の皮がむける。全力で対策して避けたい。

 二つ目。松葉杖歩行では家事が困難。

 松葉杖を使っている間は両手がふさがる。でも松葉杖を使わないと歩けない。

 松葉杖で家の中を歩いてみて初めて気がついた。家事って、作業的にはほぼ物の持ち運びだった。
 料理なら材料を持ち上げ、調理道具を出し入れし、皿を運ぶ。掃除だって掃除機を運ぶしものを掴んで片付ける。床に脱ぎ捨てられた衣服も洗濯機に入れるためには運ぶ行為が必要だ。

 これらのことは、両手で松葉杖を握っていてはできない。当たり前のことなのに、事態に直面しないと気づけなかった。トドロッキーが右半身の麻痺を負うまで、片手では革ベルトを締められないことに気づかなかったのと一緒だ。

 紙袋の持ち手なら松葉杖を掴むのと一緒に掴めるから、いちいち紙袋に入れて衣服や食器を運んでみた。できないことはないが、超絶面倒臭い。

 翌朝の料理の時には汗だくとなった。
 冷蔵庫にある食材ありったけをストック料理にしておいたのだが、台所での動き方の試行錯誤がひたすら続いた。

 狭い台所といえど、冷蔵庫と調理台とコンロとシンク、ちょろちょろ移動するためには一歩二歩どうしても移動しなければならない。その一歩二歩をケンケンしてみたり、松葉杖を1本にしてみたり、椅子を入れて尻でスライドしてみたりするが、どれも塩梅が悪く、汗が吹き出る労働となり、たびたびインターバル休憩を挟んで息を整える必要があった。
 時間がかかって仕方ない。

 この時の松葉杖の高さがジャスト位置より低かったことは後から分かったことで、ジャストだったならもう少し動きやすかったんだろうとも思うが、退院までに対策を考えておかないと!な案件となった。

 入院グッズ準備は旅行バッグにボンボン放り込んですぐに終わったが、膨らんだ旅行バッグを眺めて腕を組んだ。脳内で、松葉杖だから。さてこれをどうやって運ぶ?
 病院にはタクシーで行くにしても、タクシーに乗り込むまでと降りてから院内まで、どうやって運べばいいかわからない。

 息子らは登校中の時間帯。
 トドロッキーは右半身に麻痺があって重いものを持って歩けない。
 自分で持つ!と試してみれば、リュック程度なら背負って松葉杖歩行ができるが、旅行バッグを斜めがけしてはできなかった。

 結局、息子にお願いした。学校から帰宅後、病院まで持って来てもらうことで決着。
 ありがとう、息子。
 よし段取り終了。
 じゃ、ちょっと、入院してきます。