『夫が脳で倒れたら』外伝『一方、妻は松葉杖』6〜入院時の見守り〜

 拙著『夫が脳で倒れたら』(太田出版刊)のスピンオフ(笑)、『一方、妻は松葉杖』。脳梗塞の後遺症の右片麻痺と格闘する夫の横で、なんと妻もうっかり松葉杖生活に。そんなアキレス腱を切ってから10キロマラソン挑戦までの日々のこと。文中の〝トドロッキー〟とは『夫が脳で倒れたら』での表記そのまま、つまり夫のことです。約4年半前のこと、アキレス腱断裂の治療方法は当時のものとなります。1から読まれる方はこちらからどうぞ

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 振り返ればあれがトドロッキーの闘病の追体験第一弾だった。

 トドロッキーは退院したての頃、右半身麻痺の後遺症を負っての歩行は時間を計ってみれば発病前の2.5倍。

 さて私。タクシーが手配できず、結局入院先の病院まで歩いて行くことに。徒歩圏内にあるが、慣れない松葉杖歩行、松葉杖を掴む手のひらはヒリヒリしていて今にも皮が剥けそう。
 この状態ではたして病院まで歩いていけるのかと思ったけれど、トドロッキーの例を思い出し、3倍の時間を見積もれば大丈夫とふんだ。
 トドロッキーは杖を使用していた退院したての頃、歩き方がふらふらで今にもひっくり返りそうな不安定感があった。なんか似ている。

 チャレンジしてみれば、ちょうど3倍の所用時間で到着。こまめに休憩を挟んで息を整え、歩き方を試行錯誤してと汗だくのミッションとなった。着替えを持って来ればよかったと思ったが、そういえばトドロッキーも駅までの道のりは汗だくだった。

 家のことが心配で、後ろ髪を引かれる思いで病院に向かったわけだけれど、まあ考えても仕方ない。最短期間の入院で家に帰るまで。目標は3日。譲歩して4日。なぜなら体育館でアキレス腱断裂について知識をくれたバトミントンプレーヤーがこう言ったから。
「3、4日で退院できるよ」
 そんなことを念頭に、診察室で昨夜の当直医とは別の、執刀医となる医師と対峙した。

 私のアキレス腱部分を診て彼は言った。
「アキレス腱断裂ですね」
 そーなんですよぉ。
 昨日から医師ほか素人からも何度この診断を受けたことか。
「バドミントンですか」
 医師は昨夜のカルテをモニターで確認している。
「僕が手術を担当したアキレス腱断裂の患者さん、半分はバドミントンです」
 半分! そんなに!
 昨夜の当直医も同じことを言っていたけど、ヤバさを具体的な割合でに示されてゾッとした。

 バドミントン。ちょっとしかやらなかったけど楽しかった。アキレス腱がくっついたらまたプレーしに行きたいなあ、なんて考えがまだあったけど、綺麗さっぱりなくなった。十分な準備運動をすれば問題ないのだろうけど、復帰初日でもう一方のアキレス腱を切るイメージが脳内を支配した。

 そうなのだ、体育館でネットを張ってやるバドミントンは公園でやるのとは別物。体育館のは競技種目であって、超ハードなトレーニングを積んで勝利を目指す本気スポーツ。楽しそう〜なんて浮かれながらやっちゃいけないやつだった。
 いつもながら気づくのが遅い。

「入院は2週間となります。2週間後に抜糸して退院ですね」
「あ、ちょっと待ってください」
 交渉開始のゴング。
「長いですね2週間て」
「術後安静にしてる必要がありますから。暇ですけどね」
 ならば、なおさらさっさと退院したい。安静なら家でできる。
「できるだけ早く退院したいんです」

 夫の体調が心配だからってことを、脳梗塞の後遺症があることを含めて説明した。
 それでもこの医師が2週間の入院を必要だとするなら、手術はナシにして自然治癒でいこうと考えを巡らせていたら、彼はあっさりと私の希望を飲んだ。
「では、家で安静にしていただくことになりますけど、術後の傷の状態に問題なければ早く退院できるようにしましょう。せっかく手術するんだから無理して歩き回って再断裂ってことにはならないよう十分注意してください」
 御意!

 診察の後は車椅子移動となり、採血に腰と胸部のレントゲン、尿を提出して入院病棟へ。

 トドロッキーはこの病院の複数の科でお世話になっているが、数ヶ月前にリハビリテーション目的で2週間の入院をしたばかり。その時に私も面会で通ったから、ここの病棟のオキテも配置構造も知っている。
 まさか私までここにお世話になるとは思ってもいなかったわけだけど。
 病室は4人部屋だったが、私の他にひとり、70歳代くらいの女性がいただけだった。この女性、ずっとベッドカーテンをきっちり閉めて静かに過ごされていた。
 静けさがハンパない。漂う空気が平和で穏やかで、それがかえって胸をざわざわさせた。
 トドロッキーが脳梗塞発病後に入院していた救急病院とあまりにも違うことで、当時のあの怖さに満ちた院内の様子を何度も繰り返し思い出すことになったから。

 病棟には車椅子で入ったけれど、病棟内でのまた移動は松葉杖使用でとなった。
 看護師は言った。
「手術までは危ないので見守りにしますね」
 入院患者の転倒骨折を避けるための対策。
「トイレとか、シャワーも、歯磨きも、ベッドを離れるときは必ずナースコールをしてくださいね」
「そこの洗面台もですか?」
 洗面台は病室内にある。
「そうですね」

 わー、これ! これこれ!
 これもまさにトドロッキーの追体験。同じことがトドロッキーにも起きていて、一人で自由に行動したいトドロッキーをものすごく憂鬱にしたものだった。一時期とはいえトイレ内で放尿の始終までしっかり見守られていたトドロッキーに比べれば、私の見守りは個室に入るところまでなのだが気が重い。

 看護師の手を煩わせてしまうことに非常に恐縮してしまうのは、多忙を極めてナースコールに対応できない看護師をトドロッキーの一番最初の入院先で見てきたからかもしれない。忙しすぎて患者を前に毒を吐く看護師もいた。ひとえに職場環境ゆえだろうと思うのは、それ以外の入院先ではそのようなことがなかったからで、実際この病院の看護師たちもにこやかに対応してくれる。でもでもやっぱり気が重い。

 病院まで松葉杖でひとりでえっちらやって来た。病室を出てすぐそこのトイレに一人で行くのなんか、もはや余裕なのに。

 一応あがいてみる。
「ひとりで移動できます。家からも松葉杖で歩いてきてますので」
「気兼ねなくコールしてくださいね」
 優しい笑顔。
「よろしくお願いします」
 諦めは早い方だ。

 腹をくくったものの、気軽にトイレに行けなくなった。頻繁に来てもらうのはどうしても気が引ける。
 それで、もうちょっとしたらコールしよ、もうちょっとしたら……と回数をできるだけ減らすという自主規制を始めることにした。
が、意味のない自主規制だった。それどころか、大失敗を引き起こすことになった。

 けっこうな惨事。人の手を煩わせたくないなんて思い違いも甚だしい愚かな行為だったことを、私は翌朝思い知ることとなる。