『夫が脳で倒れたら』外伝『一方、妻は松葉杖』2〜経験者のアドバイス〜

 拙著『夫が脳で倒れたら』(太田出版刊)のスピンオフ『一方、妻は松葉杖』(笑)。文中の〝トドロッキー〟とは『夫が脳で倒れたら』での表記そのまま、つまり〝夫〟のことです。

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 アキレス腱て切れても痛くないんだなあ。これが新鮮で不思議だった。アキレス腱あたりの違和感は発熱感。熱を持っている感じがじんわりする程度が続いていた。

 例えば皮膚を切った時は、切ってすぐに痛みがなくても、次第に痛み出して痛さは間も無くマックスに到達する。皮膚じゃないけどアキレス腱が切れたのだ、発熱感もやがて痛さに変わるのかと警戒していたけれど、変わらない。

 この状況が面白くなってくるほど妙に落ち着いていたのは、トドロッキーが脳梗塞を発病したあたりの一連のことを経験して肝が座ったことがベースにあるとは思うけれど、痛みが出るのか出ないのか出るのか出ないのか、出ないんか〜い!的な脳内のノリツッコミに夢中になってたことが大きい。

 救急車はなかなかやってこなかった。
 体育館のスタッフがすぐさまアイシングしてくれたのだけど、救急車を待っている間、アイスバッグは何度も外され、しまいには外しっぱなしとなってほとんど私の足を冷やす事はなかった。

 なぜならば。

 体育館にいたいろんな立場の人たちが代わる代わる状況の把握をしにやってきてはアキレス腱の状態を確認していったからだ。みなさん、なぜか自分でちゃんと確認したがった。実際にタルタルになったアキレス腱部分を触っては、同じことを言った。
「切れてますね」「あー、切れてるね」
 指導員は複数いたわけだけど、多分全員が代わる代わるやってきた。参加者側の人たちも。多分常連さん的古参プレーヤーたち。
 患部を触ることに遠慮がない。へえ、触られても痛くないことをみなさんご存知なんだなあ、とぼんやり思う。だってそっと触る、とかじゃない。ちゃんと触る。

 みなさんから手術までの段取りとか、近所の病院についてだとかの知識をいただいた。
「仲間でアキレス腱切ったヤツいてね」「この前手伝ってた高校生の試合で負傷した子がいて」「僕も切ってます」

 生々しい情報をお持ちで。

「手術で繋がるから」「入院は数日だったなあ」「またスポーツできるよ」

 説得力ある言葉の数々。

 アキレス腱は両足切っている、という猛者もいた。
「かえって丈夫になるから。ほら、触ってごらん」

 両足のアキレス腱を断裂したという猛者が言った。もちろんその人も私のタルタルアキレスを触って切れていることを確認したので、相手は男性だが私も遠慮なく触る。
「太いでしょう? 太くなるから!」

 太くなって丈夫になるから心配しないで、大丈夫だよ、と励ましてくれているのはわかったが、私は女性であって、できればアキレス腱を太くはしたくない。そうか太くなるのか、しかも片方だけ。がっかりだ。バランスも悪い。

 近所の内科病院の医師だという方もマイラケット手に見に来てくださった。見た目はおじいちゃん。
 彼は私の横に立ち、静かに言った。
「寝てごらん」
 医師が言うのだ。もちろん私は言われるがまま、事務所の床にうつぶせになった。
 彼は私の右足に手をかけ、膝をくいと曲げて、グリグリとアキレス腱を触った。
「痛いっす」
 多分切れてなくてもそのグリグリは痛い。
「切れてるね」
 でしょう。みなさんそうおっしゃいます。
「まあ、手術すればね、治るから」
 そう言っただけで、ゆらゆらとプレーに戻っていった。
 それだけ?

 であればおじいちゃん、そんなにグリグリ触らなくても……。うつぶせから体を起こして片足で椅子に座り直しながら、うつぶせが必要だったかのかについては考えないようにした。

 何人が私のタルタルなアキレス腱部位を触っていっただろうか。
 アトラクション化しているのでは、と思い始めた頃、救急隊員3人がストレッチャーを携え体育館に入って来た。
 そのものものしさは体育館にいる人すべての視線を集めた。
 私は数分後、このストレッチャーに乗って体育館を退場することになる。わかってはいたが、想定以上のものものしさ。
 ……。
 仕方ない。浴びようじゃないの体育館中の注目を。覚悟をして救急隊員と対峙する。
 救急隊員のひとりがタルタルアキレスを触り、つぶやいた。
「ああ」
 アキレス腱が切れていることを確認したようだったけども、診断は下さなかった。
 ひととおりの問診を受けたあと、いよいよストレッチャーに乗車。動けるので自分で乗り込んだ。歩いて救急車まで行ける気がしたけれど、状況的にその選択肢はない。
 おもむろに運ばれていく私。
 ストレッチャーが体育館をいよいよ出るときに思い切って顔を上げ見渡せば、そこにいるほとんど全員と目が合ったような気がした。
 さようなら、バトミントンのみなさん。
 ずっと付き添っていてくれた指導員とアイシングしてくれた体育館のスタッフにはそれぞれ頭を下げ、お礼して退場した。

 健康体を目指し、中高年の初心者も大丈夫なはずのバドミントンをしにやって来たのに、初回で、しかも打ち方を教えてもらっただけのところで健康を害し体育館を出ることになった。
 何だろう。異世界に飛ばされたか?ってほどの想定外すぎる展開。
 ストレッチャーに揺られながら、ニヤニヤしてたと思う。何してんだろうなぁ私、と俯瞰するもうひとりの自分が状況を完全に楽しみ始めていた。