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『夫が脳で倒れたら』外伝『一方、妻は松葉杖』10〜執刀中に事件発生〜

 拙著『夫が脳で倒れたら』(太田出版刊)のスピンオフ(笑)、『一方、妻は松葉杖』。脳梗塞の後遺症の右片麻痺と格闘する夫の横で、なんと妻もうっかり松葉杖生活に。そんなアキレス腱を切ってから10キロマラソン挑戦までの日々のこと。文中の〝トドロッキー〟とは『夫が脳で倒れたら』での表記そのまま、つまり夫のことです。約4年半前のこと、アキレス腱断裂の治療方法は当時のものとなります。1から読まれる方はこちらからどうぞ

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 麻酔はすぐに効いてきた。
 まず脚が温かくなる感覚。まもなくしびれがやってきて、やがて何も感じなくなった。
 どこを触られているのかまったく分からないが、医師が足首を持ち上げたのは分かったし、そのことで膝が曲がった感覚はあった。へんなの。

 姿勢はベッドにうつぶせ。
 肘は開いている。右腕に血圧計、左腕に点滴がセットされている。シーツに敷いたバスタオルに頬づりもしている。
 もしベッドが透明だったとしてベッドの下から見たならば、拳銃をつきつけられた時に軽くてを挙げて無抵抗をアピールする時の、あの姿勢。ちょっとも歩めず身動きできない状況なのも、まさにあれだ。

 腰から下は動かないが上半身は動く。
 手術中に頭を動かして左右見回しててもかまわないと言われたが、このうつ伏せ姿勢では頭もそんなには動かない。腕の血圧計から出ているチューブの先にある電子機器がなんとか見える程度。

 すっかり感覚のなくなった脚を動かしてみようとトライしてみた。動かしている意識はあるけど、脚が動いたかどうかがそもそも見えないし感覚もないから確認のしようもない。
 脚が動いていれば、医師や看護師から「動かさないでくださいね〜」みたいな声かけがあるだろうと反応を待ったが、ないところをみればやはり動いていないんだろう。

 右アキレス腱の位置に立っているらしき執刀医が穏やかに言った。
「では、始めます」

 足首を何かされている感覚はある。でも痛みはまったくない。麻酔すごい。
 いつから流れていたのか、音楽がかかっている。80年代あたりの流行曲を誰方かのピアニストがゆったりと弾いたBGM。ピアノの音色は好きだがこれは全然趣味じゃない。

 執刀医が誰かに小声で何かを話し始めた。研修医でもいるのだろうか。手順だとかノウハウだとかのようだが、ひそひそ声のためBGMとぶつかってよく聞き取れない。

 看護師も2人くらいいる気配はある。時々声がするが、こちらもちゃんとは聞き取れない。

 聴覚方面があんまり面白くないから視覚で何かないかと思えど、首を動かしたところで前方の白い壁しか見えない。結果首が楽な床をぼんやりと眺めるに至る。

 手術ライブをちょっとは楽しめるかと思って、意識を残す方の麻酔を選択したわけだけど、これじゃイマイチ。期待はずれだが、まあこんなもんか。

 暇だ。トドロッキーが右半身麻痺を負った当初がまた思い出された。動かなくなった彼の右手脚は、それぞれ肩と腰にだらりぶらりとくっついた巨大な骨つき肉だった。
 麻酔とはいえ、私のダイコンな片脚がまったく動かない今、ある意味やっぱりトドロッキーの麻痺当初を追体験してると感じる。

 ちょっと待て、今、ダイコン脚と……?
 いや、であれば今脚はその動く機能を無くしているから、まんまダイコンと化しているのか?
 動かないダイコン脚は、ただのダイコン?
 ダイコン。
 執刀医が切ったのはダイコンの皮で、中の繊維をほじっている。

 暇ゆえ妄想が止まらなくなったその時、なぜか執刀医の声がポンと聞こえてきた。
「はり、おれた、どこいった」
 ……。
 空耳?
 必死で耳をすます。
 執刀医と誰かの会話はまた聞き取れなくなった。
 集中! 全神経を耳に集める。
 聞こえてくるのは、ユルリとしたBGMばかり。負けるな声量!
 さっきの空耳を思い返す。
「針、折れた? どこいった?」
 はっきり聞こえた気がする。
 執刀医の先生。針はどうなったんですか。
 折れたっておっしゃいましたよね、さっき。聞こえましたけど。どこに行ったか分からなくなった、みたいなこと言ってましたよねっ。
 皮膚の中に埋まっちゃったんですか?
 ニュースで時々こんなのありますよ、体の不調を調べてみればかつて手術した時に使用した器具が体内に残っていたとかっていう。
 その針を体内に残したまま縫い閉じるってことないですよね?
 声に出して質問したいけど、事態が怖すぎてその勇気もない。

 執刀医がヒソヒソ声を続けているのは分かっている。聞き取るべく全力で聴覚に集中するが、集中するほどに聴こえてくるゆったりテンポの呑気なBGM。
 これって執刀医が選曲するのかな。
 そんなことより針だ。一貫して執刀医の口調が穏やかなのだけは分かる。針は解決したのだろうか。そもそも針は折れてなかったのか? 折れていたとしてもすぐに見つかった、とか?
 声が聞きたい。集中。
 …聞こえない。

 相変わらず穏やかなひそひそ声は続いている。
 解決したのかな? きっとそう。
 看護師の目もあるし、研修医の目もある。解決しないまま縫い閉じるなんてありえない。うやむやになんかしないはず。絶対そう!
『ばっちり縫います』『怖いですか』の医師なんだし。
 大丈夫、大丈夫。

 自分に言い聞かせていると、「縫い終わりました。これからギプスをつけます」と医師の声。
よし、よかった、解決したんだ! と思い込むことに。

 脚の感覚がないが、足首を持ち上げられたことはなぜか分かる。何かをぐるぐると巻いている様子。ギプスになる包帯かな。
「傷口の部分、ギプスに取り外しできる窓をつけます。傷口をチェックできるようにするためです。これで切りますけど、肌は切れない安全なものですから安心してください」
 見せられたのはチェンソー的なフォルムをした小っちゃいキプスカッター。チュイーンとチェーンソー的なカッター音が響く。

 執刀医が言った。
「終了です」

 予定では1時間と聞かされていた手術。終わったのは、開始から約2時間後だった。
 針のことは聞かないままにした。執刀医からの説明もなかった。聞こえてないものとされたのか、そもそも空耳だったのか。まあいい。無事終了したみたいだから。振り返ればぜんぜん暇じゃなかった。気持ちがザワザワして忙しかった。

 執刀医が手術室を去った後、看護師たちが私を手術ベッドから病室ベッドに移し、尿管を装着、生理用ナプキンが装着された下着を紙おむつに替え、T字帯で固定。されるがままだが、紙おむつをT字帯でふわりと固定するだけだなんて、生理二日目の体には無防備がすぎる。嫌な予感がするが、今朝の失態から、言われるがままでいくと決めたのだ、意見はしない。
 手術室から病室ベッドごとの移動で隣の処置室へ。術後の経過観察のため30分間をそこで過ごしてから、病室に戻った。